福沢諭吉について(1835-1901)まで生きていた。
作、上村隆一、藤江尚也



右の人が福沢諭吉です。
1835年 中津藩(大分県)の下級
武士の子として現在の大阪市福島区に生まれる(12月12日)。
・父の名は福沢百助で、百助は諭吉が幼いうちに死ぬ。



























上の家は諭吉の家です。土蔵の二階が諭吉の勉強部屋でした。





・19歳の時長崎でオランダ語を学んだ。
・さらに大阪の緒方洪庵(おがたこうあん) の塾で蘭学を学んだ。

・蘭学は、オランダ語によって、西洋の医学・天文学などを学ぶ学問

医学とは、人の体や病気について研究し、病気にならないよう治したりする事に、役立てる学問

天文学とは、天体についていろいろのことがらを調べる学問





・右の写真は、「学問ノススメ」です



下の物は、簡単な年表です。


江戸時代〜明治時代(19世紀)

1835年・大阪で生まれる

1854年・長崎で蘭学を学ぶ

1858年・江戸に行って蘭学塾を開く。(慶応大学の起源)

1860年・咸臨丸でアメリカへ渡る。 幕府の命令でアメリカへ。ウェブスター辞書(アメリカの国語辞典)を初めて日本にもちかえった。

1861年・ヨーロッパを視察

1868年・慶応義塾を創設

1872年・「学問ノススメ」を出版

1874年・幼稚舎(小学校)をつくる。

1875年・「文明論ノ概略」を出版

1901年・脳出血でなくなる



欧米にいった理由は、見識を深めるため。見識とはしっかりした考えの意味がある

学問ノススメとは、1872年に福沢諭吉があらわした書物で、人間の平等や学問のたいせつさを書いています。とくに若者の間で大変評判になったらしい。
福沢諭吉が言った有名な言葉で、 「天ハ人ノ上ニ人ヲ造ラズ、人ノ下ニ人ヲ造ラズ」と言う言葉があってその意味は、天は人を平等なものとつくっており生まれながらの上下や 財産の有無、家柄・職業などの区別は、存在しない。また、そのような事で差別されてはならないと言う主張。


学問ノススメを出して変わった事
「学問ノススメ」など多くの本を出して西洋文明を日本に紹介して自由と平等の考えを広めた



「西洋事情」

西洋の文化などについて紹介した本。当時の日本は鎖国から解放されたばかり だったので、人々は海外のことを全然知りませんでした。 海外のことを知りたいと思っても、世の中にとびかうのはデマばかりで、海外 のことについての正確な本は、全く売られてもいませんでした。 そこで諭吉は海外で自分が見聞きしてきたことを、みんなにわかりやすくまと め、「西洋事情」という本にしました。 この本はとぶように売れたそうです。 福沢諭吉の人生の前半は、こうした西洋のことを学ぶとともに、日本のみんな にそれを教えることに費やされました。

これは、大野泰雅さんが僕たちのために書いてくれたものです。





1898年(明治31年)脳出血で倒れ、いったん回復したが、1901年(明治34年)再発して満66才で世を去った。


昭和59年に新しい一万円札の肖像になった。

下の写真が1万円札です。















・感想・

隆一の感想

・福沢諭吉について調べて思った事は、最初のころは、まったく分からなくて何を調べていいかわからなかったけど今になってみると結構福沢諭吉について分かったので 良かったなと思いました。
・福沢諭吉について思った事は、慶応義塾を開いて教育を広めたり「学問ノススメ」など出して結構大変じゃなかったかなと思いました

・尚也の感想

・福沢諭吉について思った事は、「学問ノススメ」など出していろいろと忙しかったんだなと思いました。

参考にしたもの


・日本歴史館(小学館)

・新版6年社会科資料集(光文書院)

・日本歴史展望 11明治国家の明暗(旺文社)

・世界大百科事典(平凡社)

・平成6年度新版6年社会科資料集(新学社)


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