(1838〜1922)
・・・多村郁恵・刑部ゆかり・・・



私たちは、大隈重信の人生などについて、調べました。
左の人が大隈重信です。


1838年
・肥前藩(佐賀県)に生まれました。
・佐賀藩の砲術長であった大隈信保の長男として生まれた八太郎(大隈重信 )は、ひよわなおとなしい子供でした。
・佐賀藩の藩校弘道館で学び、その後、蘭学、を学びました。

1870年
・明治政府の参議(さんぎ)となりました。
1882年
・立憲改進党(りっけんかいしんとう)を結成しました。
・東京専門学校(早稲田(わせだ)大学)を創立(そうりつ・始めてつくること)しました。

1888年
・伊藤博文内閣の外務大臣となりました。

1889年10月18日
・右足を失ってしまいました。
理由は、下を見て下さい。

右足を失ってしまった理由

外務大臣として、条約改正(じょうやくかいせい)につくしていた大隈は、来島恒喜(くるしまつねき)という人に爆弾を投げつけられて、右足切断の重傷を負いました。

1898年
・日本で最初の政党内閣の総理大臣となりました。

1922年
・亡くなりました。

立憲改進党って何?

大隈は日本は皇室(天皇と家族)を尊重(大切)しなければならない、イギリスは王家を尊重する君主制の議会政治をやっている、と知った大隈はイギリス流の国づくりをめざしたらよいと、立憲君主制を目指す立憲改進党を作りました。

君主制・代々受け継いで、国を治める中心になって作る事
立憲・憲法をつくりそれにしたがうこと 政党内閣総理大臣って何?

政治について同じ考えをもつ人々の集まり中の、内閣(政府の事)の1番上の大臣の事です。

どうして爆弾をなげつけられたの?

来島は、大隈がすすめている、条約改正に反対でした。来島は、「外国人は、日本のどこにでも住む事ができる。」と言う内容は、日本を植民地(国外土地で、本国から移り住んだ人たちによって、開かれた所)にするような物だと考えました。それで大隈を襲ったのでした。

参議って何?

明治2年に、太政官(だじょうかん)を設け、大政(国家、統治の行動)に参与(さんよ)した官職(役人)の事です。

太政官・明治2年設置された最高官庁
統治・国家、人民を治める事
参与・かかわる事 ・・感想・・

大隈重信が子供の頃ひよわだったのに、蘭学を学んですごいな、と思いました。 国民のために、立憲改進党をつくっていい人だな、と思いました。 条約改正にがんばっていたのに、反対する来島恒喜に、爆弾なげられて、右足を切断してしまっても、早稲田大学をつくったり、いろいろな事にがんばっていてすごい人だな、と思いました。
少しでも大隈重信の事がわかってよかったです。

・・・多村郁恵・刑部ゆかり・・・

参考にしたページ

SAGA

・・・参考にした本・・・

学研まんが明治時代・後期日本の歴史13・日清・日露の戦い
平成6年度新版社会科資料集6年
社会科資料集新版6年
日本歴史展望第11巻・明治国家の明暗

福沢諭吉上村隆一・藤江尚也

伊藤博文中村ひとみ・中村めぐみ

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