晋作と幕府!(上村隆一、藤江尚也)


右の人が高杉晋作です。



・ 1839年8月20日
今の山口県萩市の萩城下菊屋横町(はぎじょうかきくやよこちょう)高杉小忠太(たかすぎこちゅうた)の長男として高杉家に生まれる。





下の写真と右下の写真は、萩城跡です。

安政の大獄(あんせいのたいごく)は、幕府に反対する尊皇攘夷(そんのうじょうい)のリーダーの 吉田松陰が捕まって処刑されてしまった。死んでしまったのは 1859年10月27日です。その後、晋作は上海(シャンハイ)でヨーロッパの軍艦や鉄砲などの 武器やアヘン戦争で負けた清(しん)が、植民地(しょくみんち)にされた様子などを調べた。 吉田松陰は、晋作の先生です。清は、中国です。


1862年12月12日
晋作は幕府と長州を戦わせるためにイギリス公使館を焼いた。(イギリス公使館を焼いて それが長州がやったとわかれば幕府が攻めてくるだろうと予想して、イギリス公使館を 焼いた。しかし、幕府は攻めてこなかった。)吉田松陰(よしだしょういん)や高杉晋作の考えでは、まず 国力を高めてから開国しようとしたけど、幕府の考えはまず開国してしまえばおそって こないと思っていて、考えが違うので倒そうとした。晋作は清が植民地(しょくみんち)にされるのを 見てきたから、日本も外国に植民地にされては困ると思って、幕府を倒して新しい 国をつくろうとした。
下の絵が吉田松陰です。







1863年1月5日
松陰のお骨をお墓に入れる時、晋作は将軍しか通れない橋を堂々とわたった。


1863年
長州の武士達は、下関を通る外国船を大砲で攻撃しました。砲撃されたイギリス、フランス、オランダ、アメリカは、四国連合艦隊(よんこくれんごうかんたい)をつくって長州をせめました。長州も60門の大砲で戦いました。だが、敵は17せきの軍艦。大砲は 百数十門、そして、戦いは始まってしまったのです。そして、すぐに負けて、賠償金( ばいしょうきん)をよこしなさいと言われたのに晋作はいばって、幕府の命令で やったのだから幕府にもらってくれと言った。そして、これからは関門海峡(かんもんかいきょう)を自由に 通ってもよろしいと言った。 外国との戦いで、さむらいたちにまるで戦う気がなかったので、晋作は志(こころ)ある者は 誰でも入隊できる四民平等(しみんびょうどう)奇兵隊(きへいたい)を作った。奇兵隊とは、1863年に攘夷決行にあたり高杉晋作が組織(そしき)した軍隊。攘夷決行とは、外国人をうちはらうこと。

下の写真は大砲です。

















1866年
坂本竜馬(さかもとりょうま)が晋作と桂小五郎(かつらこごろう)とあってしきりに薩摩(さつま)の西郷隆盛(さいごうたかもり)にあうことを すすめたので、薩摩と話し合って薩長(さっちょう)連合ができて、幕府と戦った。


1867年
小倉城を落としてから、午前二時はい結核(けっかく)血を吐いて死去。


下の写真が晋作の墓です。










参考にしたもの

・日本歴史館(小学館)
・社会科資料集(光文書院)
・少年、少女、日本歴史、幕末の風雲(小学館)
・世界大百科辞典(平凡社)

・高杉晋作のホームページ


・萩城跡


・街中に大砲発見


・高杉晋作



高杉晋作について

・高杉晋作はかわいそうだなぁと思いました。なぜなら、晋作は幕府が倒される前に死んでしまったからです。でも、晋作は天国で喜んでいると思いました。上村隆一

・高杉晋作はかわいそうだと思いました。晋作の、先生の吉田松陰が死刑にされたからです。藤江尚也

・小学校のページに戻る


・行事の様子のページに戻る


・明治維新のページへ


・高杉晋作の人生(中村ひとみ、中村めぐみ)


・高杉晋作(刑部ゆかり、多村郁恵)


<-.->