天皇陛下から許しを受けた、幕府は、長州に大軍を向けようとしました。
これを(第1次長州征伐 )と言います。
そのころ、長州藩内は、2つの組のようなものに分かれました。
高杉晋作側は、「幕府と一戦すべし」
椋梨藤太側(むくなしとうた)は、「毛利家を守るため幕府にしたがうべき」
と、争っていたのですが、椋梨藤太側が政権(せいけん)(政治行う事の権利)をにぎり幕府への降伏(こうふく)(負けと認める事)を決定しました。
だが、高杉晋作は「このままでは長州はつぶれてしまう」と、おこりました。
そして、高杉晋作は奉行所(ぶぎょうしょ)(幕府のさしずを受けて仕事を受ける所)をのっとる作戦にでました。
アメリカ以外にも、フランスやイギリスなどにも、アメリカと同じ権利(けんり)を与えなければならないので、それを利用してイギリスが日本に来て、長州藩に新政府を期待して長州藩にちかずきました。
そして、長州藩は兵力を高めて行きました。
長州藩の動きを見て、幕府は第2次長州征伐を 決めました。
1866年1月京都の薩摩藩邸(さつまはんてい)では、長州両藩の同盟(同じ目的のために力を合わせて行動する事)を結びました。
1866年6月幕府は長州に兵を向けました。(4つの方面から)攻めました。
しかし、幕府は負けてしまいました。そして長州は勝ちました。
第2次長州征伐が終わりました。そしてまもなく高杉晋作は、肺結核(はいけっかく)のため、亡くなりました。
高杉晋作は、敵どうしだった薩摩とせっかく薩長同盟を結んで、幕府を倒そうとしていたのに、第2次長州征伐が終わって、亡くなってしまったので、かわいそうだと思いました。
・・刑部ゆかり・・