稲里小(中)学校のあゆみ

出典:『稲里小学校沿革史』,後藤旧輔『追憶』,『新穂別町史』,『穂別町史』,『夕張市史』


  1187   東は鵡川、西は余市の間まで人が行き来していた。    
  1456   コマシャインの戦い。    
  1457   武田(蛎崎)信広、コマシャインを討つ。    
  1593   蛎崎慶広、豊臣秀吉の許しを得て蝦夷島主となる。    
  1604   蛎崎慶広、徳川家康の許しを得て松前に名字を改める。

このころ、鵡川場所ができる。
   
  1669   シャクシャインの乱が起き、松前藩が討つ。

上鵡川(今の穂別)は麓氏が所有していた。
   
  1669   蝦夷地は幕府が治めることになり、鵡川など
シコツ十六場所を勇払にまとめる。
   
  1800    八王子千人同心の人たちが勇払と鵡川(汐見)に来る。    
  1813   蝦夷地を再び商人に任せることにする。    
  1855   再び蝦夷地は幕府が治めることにする。
勇払地方は仙台藩が治める。
   
  1858   松浦武四郎が仁和に来る。
アイヌの人の家に泊まる。
穂別川上流で泊まり、周辺を調べる。
富内に移動して泊まり、周辺を調べる。
   
  1867   江戸幕府滅亡。

王政復古の大号令。
   
明治元年 1868   東北の藩は蝦夷地から帰る。

箱館府をおく。
   
明治二年 1869 函館戦争が終わる。

蝦夷地を北海道と改める。穂別は胆振国勇払郡に入る。

北海道を分けて治めることにし、勇払郡は高知藩が治めることになる。

場所請負制をやめ、漁場持制度とする。
   
明治三年 1870 穂別には
 ニワン(仁和)、カイカウン(上和泉)、イナユフ、
 上キナウシ(豊田)、ルヘシヘ(累標=和泉)、
 カエクマ(カイクマ)、シュブンナイ、
 ホヘツフト(穂別)、ヘトンナイ(富内)、
 ニナツミフ(ニサナイ?)
  の村があり、九八戸・四五三人。

開拓使を札幌に移す

全道を開拓史が治めることにする。
   
明治四年          
明治五年          
明治六年 1873  穂別は似湾村、累標村、穂別村、辺富内村の四村となる。    
明治七年      
明治八年        
明治九年 1876 漁場持制度をやめる。    
明治一〇年 1877  忠太郎さんがアイヌの人と結婚し、穂別に住む。(「似湾村史稿」)    
明治一一年          
明治一二年          
明治一三年 1880  札幌と手宮(小樽)の鉄道ができる。    
明治一四年          
明治一五年 1882   開拓史をやめる    
明治一六年          
明治一七年 1884    札幌と根室の間に電信が開通する。    
明治一八年          
明治一九年 1886 北海道庁をおく

アイヌの人に農業をさせはじめる。
   
明治二○年          
明治二一年          
明治二二年 1889    第一回衆議院議員選挙が行われる。    
明治二三年          
明治二四年 1891   札幌にはじめて電灯がつく。    
明治二五年 1892   北海道炭砿鉄道室蘭線が開通。
苫小牧駅、追分駅などができる。

星進などが仁和に、川口菊蔵が和泉に来る。

和泉では、森本イカシモが宿屋をしていて、
アイヌの子に寺子屋式の教育をはじめる。
   
明治二六年 1893   中村平八郎がカイクマに住み、石油沢で石油を見つける。

日置猛熊を教師に、アイヌの子と和人(内地から来た人)の子と一緒に寺子屋式の教育をはじめる。

長岡谷吉が豊田に来る。のちに和泉に移る。
   
明治二七年 1894   私設似湾教育所、仁和神社ができる。

鵡川尋常小学校似湾分校ができる。

仁和では、中村友之進、池田竹松が来て、中村多盛が商店をひらく。

和泉では、木村喜代太、阿部伊右衛門、豊岡末次郎が来る。森本イカシモが人馬継立業を行う。

豊田に紀藤昆次郎が来る。

その他、長岡弥吉、工藤辰蔵、斉藤甚七、梅沢伊八などが来る。

中村平八郎、石油を札幌や小樽に売る。
   
明治二八年 1895   似湾巡査駐在所ができる。

鵡川村外七か村が鵡川村となる。

鵡川尋常小学校累標分校ができる。

杉田杉三郎が栄に来る。

佐相常兵衛が豊田に、斉藤庄平が仁和下に、因幡の団体の山口良人・矢田源七郎、板橋安次などが富内に来る。
   
明治二九年 1896   似湾尋常小学校になる。

海道為吉が仁和に、横山辰五郎が豊田に来る。横山梅太郎、横山武右衛門も来る。
   
明治三〇年 1897 佐々木研五郎・工藤辰三の二名が稲里に住みはじめる。
  佐々木研五郎:宮城県の士族
  工藤辰三:岩手県生まれ
似湾森林監視駐在所ができる。

鈴木直枝が和泉に病院をひらく。

仁和に杉田農場ができ、為田与三五郎・森松太夫、西波一郎などが来る。

佐々木研五郎が中穂別(稲里)に来る。
   
明治三一年 1898 鵡川で大洪水が起き、たくさんの人が畑を失う 鵡川で大洪水。

三井物産木材部が鵡川流域の森を調査する。

佐久間茂助が仁和に、大久保与助が穂別に来る。
   
明治三二年 1899   北海道旧土人保護法ができる。

洪水で畑を失った人のために、中穂別が解放される。

仁和に駅逓所ができる。

仁和と和泉に渡船場ができる。

鵡川−仁和、仁和−カイクマ、栄−厚真の間の道路ができる。
   
明治三三年 1900  夕張の炭坑でガス爆発
厚真川などで洪水が起き、たくさんの人が畑を失う
仁和で池田松竹が稲作のテストをはじめる。    
明治三四年 1901   累標尋常小学校になる。

和泉の矢野茂吉が稲作のテストをはじめる。
   
明治三五年 1902 当時、カイクマの種田シマンノ、大谷ウラトクル、加藤バルコムシが住んでいた。 似湾郵便局ができる。

似湾森林監視員をおく(今の営林署)。

稲里に後藤光、岩崎信、池田辰治などが来る。
   
明治三六年 1903
後藤光、岩崎信、池田辰次の三名が住みはじめる。 中穂別神社ができる。

稲里の住民が稲里と夕張の間の道路を造るための調査をはじめる。

穂別に渡船場ができる。

穂別にて寺子屋式の教育がはじまる。

稲里に多数の人が来る。

奥穂別(長和)に佐々木江蔵が来る。

旧穂別神社ができる
   
明治三七年 1904 桑原栄之助、渡辺弥六、芥川長平ら約三〇名が住みはじめる

早来、夕張、厚真、穂別などより川を道として来た

稲里神社ができる。
中穂別簡易教育所ができる。

穂別教育所ができる。

稲里の人が稲里と夕張(紅葉山)の間の道路を造る。

紀藤昆次郎が豊田で稲作に成功。

木炭づくりがはじまる。
   
明治三八年
1905 稲里の住民により紅葉山への道路が完成する。以降、物資の輸送は(穂別も含めて)この道を使った。

稲里小学校開校・かやぶきの校舎ができあがる。名前は「中穂別簡易教育所」
中穂別簡易教育所ができる。

占冠村が辺富内村から分かれる。

長和では、二二家族が来て、神社ができる。

稲里で、中村寅之助が稲作のテストをはじめる。

仁和に島津医院ができる。
児童 卒業
明治三九年 1906 農談会をつくる。
その後、信用組合、産業組合へと発展する
(のち、大正四年十一月二二日に穂別町農協と併合)

長和に今泉与三太郎ほか二二名が住みはじめる。

第一回卒業式(卒業生三名)
稲里に農談会(今の農協)ができる。

長和の人が夕張(ヌタポマナイ)までの道路を造る。

和泉に森林監護員駐在所ができる。(今の林務署)

穂別と鵡川の間に馬車の道ができる。

仁和では、星進が乳牛の飼育を、斉藤丈太郎が鍛冶屋を、田代料理屋がはじまる。


明治四〇年 1907 穂別巡査駐在所ができる。

奥穂別簡易教育所ができる。

稲里に真宗大谷派中穂別説教所(円満寺)ができる。

中穂別郵便集配所ができる。

仁和と厚真の道が馬車道になる。

佐々木江蔵が上穂別(新登川)で石炭を見つける。

二ツ屋力吉が仁和に薬屋をひらく。
明治四一年 1908 現在のグラウンドに校舎を建てる工事を始める

中穂別教育所と改名

新校舎で開校式を行う
(改築費五五〇円・うち三〇〇円は地域の寄付)
中穂別教育所になる。

稲里に中穂別愛寿医院ができる。

穂別に駅逓ができる。
明治四二年 1909 辺富内特別教授所ができる。

高谷木材穂別事業所ができる。

長和と夕張(ヌタポマナイ)までの道ができ、夕張と長和、和泉が道路でつながる。

王子製紙がオロロップ(福山)、長和、稲里で造材をはじめる。関木材部、高谷木材
明治四三年 1910 中穂別愛寿医院がなくなる。

王子製紙の流送がはじまる。

長和の人が長和と夕張(楓駅)までの道を馬が通れるようにする。

王子製紙苫小牧工場が操業をはじめる。

稲里と夕張の間の道を広げる。

似湾病院が新しくなる。
明治四四年 1911 稲里・紅葉山間に車道が開かれる(今の二七四号線)

鑑賞植物園を作る
稲里に駅逓ができる。

穂別と稲里の道を広げ、穂別と夕張(紅葉山)がつながる。
明治四五年
大正元年
1912 中穂別尋常小学校と改名

道庁より模範部落に指定される。以後十年間、指導を受ける。
曹洞宗似湾説教場(永林寺)ができる。

似湾・穂別・累標・辺富内村が一つになる。

穂別尋常小学校、中穂別尋常小学校になる。

稲里が模範部落に選ばれる。

辺富内簡易教育所になる。

富内八幡神社ができる。
59
大正二年 1913 全道的凶作 穂別、仁和、稲里に墓地と火葬場ができる 36
大正三年 1914 富内に佐賀から一三戸が来る。

王子製紙が福山・八幡の沢で造材をはじめる。
36 12
大正四年 1915 住民会を作る >中穂別信用組合ができる。

似湾土功組合ができ、仁和に用水路をつくることになる。

仁和の三号沢のあたりに東洋牧場ができる。
57
大正五年 1916 王子製紙が稲里・イワナイ沢で造材をはじめる。 57
大正六年 1917 馬の共同放牧地協同組合ができる(今の町営牧場) 奥穂別尋常小学校、辺富内教育所になる。

似湾土功組合の工事現場が洪水で流される。
64 14
大正七年 1918 富内(ニタカイ)に佐賀の一三家族、安住に栃木の七家族、福山に山形からの数家族と和歌山からの五家族が来る。

新登川で石炭を掘りはじめる。
64
大正八年 1919 似湾村になる。

富内に駅逓ができる

共同放牧地ができる。

似湾土功組合が揚水機を置くが失敗する。
69 11
大正九年 1920 北海道鉱業鉄道の工事が沼ノ端からはじまる。

日本通運の穂別事業所ができる。

福山に駅逓ができる。

福山と長和、登川の間の馬車道ができる。

富内に北海道鉱業鉄道の炭鉱業務所ができる。

似湾橋を造るが、工事中に洪水で流される。

稲里の人が用水路をつくり、水田づくりが活発になる。
75 10
大正十年 1921 穂別郵便局が開局する(局長・後藤旧輔)

村上勇助が村上温泉をひらく(昭和二十年代後半まで)
戸田万作が稲里に木工場をつくる。

中穂別郵便局になる。

長岡弥吉が富内で温泉屋をはじめる。

居路夫特別教授場ができる。

村上勇助が稲里で温泉宿をはじめる。

富内に、大阪と滋賀から人が来る。
75
10
大正一一年 1922 中穂別巡査駐在所ができる。

沼ノ端と生田の間に鉄道ができる。

台風により似湾土功組合の現場と、似湾橋が流される。

稲里の芥川、黒崎、石原が用水路をつくる。

王子製紙がサヌシュッペ川で造材をはじめる。
77 10
大正一二年 1923 沼ノ端と栄の間に鉄道ができる。
似湾駅(旧栄駅)となる。

穂別に平野医院ができる。

富内まで鉄道ができる。
杵臼(豊田)、穂別、辺富内駅となる。

横山梅太郎の穂別運送社、小保方運送店営業所ができる。

宮崎嘉之が福山で砂金とりをはじめる。

穂別、仁和、富内に木工場ができる。
78 10
大正一三年
1924
教室と廊下を三三坪増やす
(永井孝蔵が請け負う。当時は一坪四一円)

サヌシュペ四九―三に病院ができる。
費用は住民の寄付による。昭和十年まで。

校舎の位置を下げ、グラウンドを広くした
(監督は芥川長平と瀧川藤三郎)。

農業実習地もができる
上穂別尋常小学校になる。

北海道鉱業鉄道は石炭掘りをやめ、北海道鉄道になる。

穂別巡査部長派出所、辺富内尋常小学校、似湾尋常高等小学校になる。

役場が仁和から穂別に移る。

食糧事務所(米の育ち具合を調べるところ)の駐在所が穂別、仁和、稲里にできる。

仁和の駅逓がなくなり、長和に駅逓ができる。
80
10
大正一四年 1925 穂別郵便局を現在地(穂別)に移転 三上木工場が火事になる。
そのあとに石川惣平の穂別木工場ができる。

稲里に拓殖医院ができる。

私設穂別消防組ができる。

穂別尋常高等小学校となる。

豊田、和泉、富内に墓地ができる。

中穂別郵便局が穂別に移り、穂別郵便局になる。

辺富内巡査駐在所ができる。

野津次郎が中穂別炭鉱を掘りはじめる。

私設辺富内消防組ができる
83 18
大正一五年 1926 準地方道が穂別まで伸びる。

富内と福山の手前(大曲)までの道路ができる。

曹洞宗穂別説教所(梅渓寺)ができる。

私設似湾消防組ができる
昭和二年 1927 昭和大恐慌がはじまる。

福山に墓地ができる。

大曲と福山までの道路ができる。

真宗大谷派辺富内説教場(大真寺)ができる。
79 11
昭和三年 1928 穂別、仁和、富内に公設の消防組ができる。

穂別尋常高等小学校に寄宿舎をおく。

ラジオ放送開始。

辺富内郵便取扱所ができる。

穂別自動車運輸ができる。
町内に初めてトラックが入る。
94 19
昭和四年 1929 補習科を設置する 長和に墓地ができる。

辺富内尋常高等小学校となる。

似湾尋常高等小学校杵臼分教場が累標尋常小学校にできる(昭和五年まで)。

上穂別尋常小学校に補習科をおく。

中穂別尋常小学校に補習科をおく。

村名が似湾村から穂別村になる。

穂別郵便局で電信電話事務がはじまる。

似湾郵便局で電信電話事務がはじまる。
119 12
昭和五年 1930 稲里の坊主山で山火事。一週間燃え続ける。

稲里木工場が火事になる。

村のお金がなくなってきたので、対策会議を清川旅館で行う。

この年から昭和一〇年まで不作が続く
127 16
昭和六年 1931 辺富内郵便局となる。

流送が穂別(中島)で陸揚げに変わる。
123 17
昭和七年 1932 居路夫尋常小学校になる。

穂別の山内製綿工場か火事になる。
113 22
昭和八年 1933 日の出鉱山(クロム・福山)がはじまる。 108 13
昭和九年 1934 校舎改築・落成式を行う(総工費三千円) 似湾土功組合が解散になる。

穂別に、宮下医院、真宗本願寺派穂別説教場(真光寺)、真宗大谷派穂別説教場(本念寺)ができる。
100 19
昭和十年 1935 稲里の拓殖医院が長和に移る。

穂別に宇野歯科医院ができる。

村社穂別神社ができる
92 15
昭和一一年 1936 芥川長平が校旗を寄贈する 五年ぶりの豊作となる。 84
昭和一二年
1937
中穂別尋常小学校に高等科を置く
備品代として五三二円三三銭が部落より寄付される
中穂別尋常高等小学校になる。

札幌と東京の間に定期航空路ができる。

日中戦争はじまる。

役場に電話がつく。

穂別に電話が九個つく。

役場を建てかえる。

辺富内郵便局で電信電話事務がはじまる。
91
11
昭和一三年 1938 ほべつ橋ができ、渡船場はなくなる。 93 20
昭和一四年 1939 三学級編成となる 長和の拓殖医院がなくなる。

上杵臼郵便取扱所ができる。

富内で石炭を掘りはじめる。

稲里の千福鉱山で石油を掘りはじめる。
84 13
昭和一五年 1940 居路夫郵便取扱所ができる。

居路夫、中穂別、上杵臼の郵便局ができる。
80 10
昭和一六年 1941 地名が稲里となる

稲里国民学校と改名
>村内の小学校が国民学校と名前をかえる。

字名改正により、仁和、栄、和泉、豊田、稲里、長和、安住、平丘、富内、福山の一一字ができる。

穂別村季節保育所(記念館)ができる。

富内国民学校が安住国民学校になる。

太平洋戦争がはじまる。
77
15
昭和一七年 1942 富内炭鉱でガス爆発、閉山となる。
昭和一八年 1943 北海道鉄道が国鉄になり、鵡川駅につながる
(豊城−沼ノ端間は廃線)。
合わせて、似湾駅を栄駅、杵臼駅を豊田駅、辺富内駅を富内駅にする。

福山と岩美の間の道ができ、トラックで運べるようになる
74 11
昭和一九年 1944 戦争で石炭が大量に必要となったため、新登川炭鉱で石炭を掘りはじめる。

長和と新登川に私設警防団ができる。

福山神社ができる。

倉淵春平が水車で発電し、精米・精粉をはじめる。
80 13
昭和二十年 1945 穂別村電気協力会ができ、安住、富内、穂別に電灯がつく。

富内に電話がつく。

ラジオ放送が受信できるようになる。

太平洋戦争終戦。

食糧の買い出しが盛んになる。
77 16
昭和二一年 1946 サハリンより小林さんなど一七家族が豊進に来る 新登川炭鉱が再開される。

長和国民学校新登川分校が開校する。

富内木工場がはじまる。

隆農に一四家族が来る。

新登川に炭鉱診療所、神社ができ、電気が来る。

穂別に太田医院ができる。

富内に山口小児内科医院ができる。
78 12
昭和二二年
1947
開拓五十周年記念式挙行

稲里小学校と改名

中学校「穂別中学校稲里分校」を置く。
新登川国民学校になる。

各国民学校が小学校になる。

穂別・仁和・和泉・安住に中学校、稲里・長和・福山に分校ができる。

富内のシマロップ沢で山火事が起きる。

穂別村消防団を置く。
穂別・富内・仁和・新登川に分団を置く。

豊進などに一一家族が来る。
84
16
昭和二三年 1948 穂別郵便局に電話が置かれる。

穂別村農業会解散、穂別村農業協同組合へ。

穂別村国民健康保険組合診療所ができる。

穂別村開墾馬耕隊ができる。

穂別中学校長和分校新登川学級ができる。

福山部落開拓三〇周年記念式典を行う。

北炭穂別炭鉱開鉱式を行う。

仁和電化造田期成会ができる。

隆農に九家族が来る。
77 16
昭和二四年
1949
校長住宅改築
 山本与三太郎が請け負う
 総工費三五万円、うち二五万円は部落が払う

登川から稲里への電気工事着工
穂別村電気利用協同組合ができる。

穂別中学校新登川分校になる。
農業改良普及事務所穂別駐在所ができる。

穂別村開拓農業協同組合ができる。

新登川中学校になり、新登川小中学校となる。

長和簡易郵便局ができる。

仁和土地改良区(電化造田期成会)となる。

和泉地区などに五家族が来る。
88
17
昭和二五年 1950 穂別村国民健康保険組合病院ができる。
石油沢(茂別)小学校設立の許可が出るが、校舎などの関係で開校できず。

三井木材穂別事業所ができる。

仁和土地改良区の用水路が完成する。

穂別−和泉の間にスクールバスが走る。

稲里で火事、七軒が焼失。

和泉中学校を穂別中学校に統合する。

王子製紙の流送が終わる。

隆農に八家族が来る。
91
昭和二六年
1951
電気工事完成
阿部校長先生が生まれる
茂別小学校が炭鉱事務所に開校する。

穂別村営バスがはじまる。
仁和−稲里線と穂別−富内線の二つ。

村営穂別村国民健康保険病院となる。
村立穂別高等学校(定時制)が穂別中学校でできる。

公民館、公民館図書室ができる。

栄農業協同組合ができる。

総合産業穂別工場ができる。

千歳−羽田線が再開する。

仁湾クラブ劇場(栄映劇場)が再開される。

隆農に一家族が来る。

長和で、水車の発電により一七戸に電気がつく。
96
15
昭和二七年
1952
穂別中学校稲里分校が穂別中学校に統合
スクールバス通学となる。
胆振豊田郵便局に電話がつく。

茂別小学校の校舎ができる。
穂別木材株式会社ができる。

さくら保育園ができる。

穂別−富内線を廃止
(四月二〇日 暴風雨により富内道路が崩壊する)

スクールバス運行により、稲里中学校分校を穂別中学校に統合する。

穂別発電所の基礎工事がはじまる。

苫小牧信用金庫穂別支店ができる。

隆農に一七家族が来る。
85
17
昭和二八年 1953 教室を増やす(二七、五坪) 穂別高校に普通科(一学級)ができる。
鵡川村が鵡川町になる。

福山中学校になり、小中学校になる。

穂別村立国民健康保険病院になる。

穂別発電所の本体工事がはじまる。

北炭穂別炭砿が閉山するが、穂別炭砿株式会社をつくり採炭を続ける。

穂別中央館(映画館)ができる。

福山郵便局に電話がつく。
90 10
昭和二九年 1954 沼ノ沢木材工業稲里木工場ができる 発電所の現場から石油が噴出し、工事を中断する。

仁和公民館ができる。

新登川で火事、製材工場・鉄工場・変電所が焼失、さらに坑内に出水し採炭不能になる。

新登川炭砿閉山、消防第四分団も解散する。

穂別高校の新校舎(第一期)ができる。

消防団に消防自動車が来る。

聖観世音菩薩観音(賢治観音)が奉納される。
当時の横山正明町長が、幼少期に親交のあった浅野晃から宮沢賢治の話をよく聞いていて、横山自身も宮沢賢治の理想をもとにしたまちづくりを願うようになった。町長になった横山は、浅野を通して宮沢賢治の研究家・佐藤寛に会い、賢治観音の建立について相談した。佐藤は宮沢家の了解を取り、宮沢と親しかった彫刻家・佐藤瑞圭に作成を依頼する。完成後は発電所近くの御堂にまつられていたが、横山の死後は行方不明になっていた。富内の老人クラブに保管されていた賢治観音を、当時の富内駅の駅長だった谷口正によって発見された。地元の募金によって観音堂が建てられ、現在に至る。
  『宮沢賢治の詩の世界』
  (http://www.ihatov.cc/monument/093.html)

保育所を新築し、村立さくら保育園とする。
88 14
昭和三十年 1955 村営バスを新登川、栄まで伸ばす。

松柳木工場ができる。
90 16
昭和三一年
1956
稲里火葬場ができる。

穂別農協稲里第二支庫(?)ができる。

稲里第二会館ができる。

川向い農道が村道に昇格
放火のため新登川小学校全焼。

長和中学校になる。

村が財政再建団体の指定を受ける。
86
16
昭和三二年
1957
スクールバス廃止により、稲里小中学校となる。

小学校校舎の改築落成式を行う

川向かいの道路(東線?)が農道から村道になる。
新登川中学校と長和中学校が一緒になる。

財政再建計画がはじまる。
スクールバスの路線変更のため、稲里中学校が再開校する。

栄和仮吊橋が完成する。

和泉小学校累標分校が開校する。

富内映画劇場ができる。

第一回村民文化祭・大運動会が開かれる。

仁和・栄地区に一般電話がつながる。

長和・福山で肉牛の飼育がはじまる。

穂別福山発電所で全村一二〇〇戸への送電が完了する。

大和鉱業稲里炭鉱で採炭がはじまる。

発電所にアイスクリーム状の流雪ができ、発電停止になる。以後もしばしば起きる。

佐藤バット工場がはじまる。

町内でテレビ放送が受信できるようになる。
97

昭和三三年
1958
稲里第三会館ができる。和協会館(?)と呼ぶ。

稲里神社の鳥居ができる。
穂別橋ができる。
和泉小学校の改築が終わる。

和泉に農村電話がつながる。

豊田に消防団第四分団が置かれる。

和泉橋(ルベシベ橋)ができる。

村有林造成事業がはじまる。

中島橋ができる。

鵡川−穂別の間の道道を造りなおす。

坊主山(稲里)に植林を行う。

栄(カイカニ)地区の用水路の工事が終わる。

第一回総合家畜共進会が開かれる。

仁湾クラブ劇場を建て直して、栄映画劇場にする。

仁和中学校の増築が終わる。

長和と福山に肉牛飼育組合ができる。
富内線が振内まで伸びる。

本間製材所が栄にできる。
112
21
昭和三四年
1959
部落会の寄付で小学校にピアノ、背景幕を寄贈する
責任者・自治会長川口利雄。

稲里小中学校大和分校を設立する

稲里第一会館ができる。

小中学校校章を制定

(旧)山本橋ができる
山本橋ができる。

稲里小中学校大和分校ができる。

安住小学校ができる。

長和と新登川に電話がつながる。

大和分校の校舎が完成し、落成式を行う。

穂別ハイヤーがはじまる。

栄和橋が完成する。

賢治観音を観音堂に移す。
89
15
昭和三五年
1960
大和分校が大和小中学校となる

(旧)藤崎橋ができる

札幌佐々木木工場稲里製材所ができる。
穂別市街に簡易水道ができる。

遠藤組ができる。

大和分校が大和小中学校になる。
村有林植林一〇か年計画がはじまる。

豊進八幡神社ができる。

長和小中学校改築工事が終わる。

穂別高校の校舎(第二期工事)が終わる。

農協の倉庫ができる。

仁湾川改修工事が終わる。
92

昭和三六年 1961 農村公衆電話開設。 安住小が富内小に、安住中が富内中になる。
穂別中央児童公園ができる。

穂別市街で火事。三戸全焼、一名死亡。

穂別小学校改築工事が終わる。

農協の事務所と店舗ができる。

アスパラガスの試作がはじまる。

穂別テレビ受信施設組合ができ、共同視聴がはじまる。

八幡・岩見のクロム鉱が閉山する。
95
昭和三七年 1962 穂別町となる。

町家畜センターができる。

穂別町土地改良区ができる。

町制施行記念式典・祝賀会及び記念行事を行う。
穂別音頭・町制祝歌をつくる。

台風九号により和泉で児童一名が死亡。

富内で児童二名が鵡川に流されて死亡。

穂別市街の道路が舗装され、水銀灯がつく。

栄−穂別の間のバスが道南バスに変わる。
101
昭和三八年 1963 中学校校舎を増やし、中学校特別教室を建てる 野見木工場が火事になる。

新登川小学校の新校舎ができる。

穂別高校が道立になる。

角張氏がビニールハウス園芸実験場をつくる。

信ちゃん遊園地ができる。

町内の水田の面積が一〇〇〇町歩を超える。
86
昭和三九年
1964
稲里小学校六十周年・中学校校舎落成記念式典

小中学校校歌制定

屋内体育館落成

同窓会母校発祥記念碑ができる
仁和小・中学校が火事になる。

大和炭鉱炭住街で火事が起きる。

穂別市街でごみ収集車が動きはじめる。

仁和小・中学校復旧工事が終わる。

富内線が日高まで延びる。

富内に簡易水道ができる。

道道鵡川夕張線が茂別まで延びる。
 
68

昭和四〇年 1965 特別教室を増やす 穂別市街で火事が起きる。六戸全焼。

町内初の子供会「明穂子供会」ができる。

アスパラガスの栽培がはじまる。町内一〇四戸。

町営プールができる。

日勝道路ができる。

町営バス穂別−新登川線を廃止する。
(一二月一日・道南バスが運行をはじめる)

農協給油所ができる。
穂別市街の綿打工場が火事になる。

穂別町火葬場ができる。

穂別炭鉱が閉山する。

栄地区に簡易水道ができる。
66
昭和四一年 1966 バックネット完成 和泉小学校累標分校の閉校式を行う。

キウス・茂別・ニサナイ・豊進に公衆電話ができる。

財政再建を達成する。

町有林の植林が五〇〇haになる。

国鉄石勝線の建設がはじまる

日高−夕張の間の道路(産業開発道路・現在の二七四号線)の建設が日高からはじまる。

穂別と占冠の間の林道ができる。

稲里小学校の新しい体育館ができる。

福山自衛消防隊ができる。
76 13
昭和四二年 1967 学校簡易プール完成 穂別4Hクラブ連絡協議会ができる。
 茂別4Hクラブ(四一年四月一八日・一三名)
 中農4Hクラブ(四一年七月二七日・一四名)
 平丘4Hクラブ(四一年九月一三日・一一名)

穂別市街の一条通りで四〇キロ制限・片側駐車の交通規制が行われる。

大和炭鉱でガス突出事故が起きる。

穂別町立病院と名前を変える。

仁和小学校にプールができる。

大和炭鉱が閉山する。

豊田に簡易水道ができる。

町営スキー場ができる。
穂別町スキー連盟ができる。
55
昭和四三年 1968 長和中学校・大和小中学校を統合

水道が設置される。
学校の近くの山に十トン入りの貯水槽を置く。

電話ボックスが設置される。
第一回町民スキー大会が開かれる。

穂別町農協と栄農協が一緒になる。

大和中学校の閉校式を行う。

長和中が稲里中と一緒になる。

富内小学校にプールができる。
53
昭和四四年 1969 稲里自衛消防隊ができる。

穂別アスパラガス株式会社ができる。

第一回町内駅伝大会が開かれる。

穂別町立病院が新しくなる。

豊田橋ができる。
町立スキー場にロッジができる。
47 21
昭和四五年 1970 穂別町母子センター(今のきらり)が町立病院の中にできる。

茂別小学校の閉校式を行う。

第一次林業構造改革事業がはじまる。
消防サイレンに愛の鐘がつく。

穂別アスパラガス工場がはじまる。

白老と平取から黒毛仔牛五〇頭を入れ、肉牛の飼育をはじめる。

新登川部落の集団移転式を行う。

和泉小にプールができる。

穂別町青少年会館体育館ができる。

新登川小学校が閉校になる。

国道二七四号線、福山大橋ができる。
45
昭和四六年 1971 肉牛の飼育が始まる 栄巡査駐在所がなくなる。

穂別ダム建設地の移転補償交渉がはじまる。

留守家庭児童学級「わらしべ」が青少年会館にできる。

減反がはじまる。

新登川トンネルができる。

穂別消防支所ができる。消防団は発展解散。

稲里に一五haの町営放牧地ができる。

和泉に二五haの町営放牧地ができる。

信ちゃん遊園地と緑が丘団地に公衆電話ができる。

消防支所に救急車が置かれる。

富内巡査駐在所がなくなる。
44
昭和四七年 1972 新穂別炭鉱が露天掘りで再開発される。

福山小中学校に寄宿舎ができる。

町母子センターの建物ができる。

長和簡易郵便局がなくなる。

小林忠義がメロンのテストに成功。糖度一四度。

穂別町営テレビ(社会教育テレビ)の放送がはじまる。

穂別アスパラガス工場でスイートコーンの缶詰の生産がはじまる。
地域集団電話ができる。
(仁和・栄・豊田・和泉・豊泉)

第一回町民登山大会(坊主山)

和泉にごみ焼却炉ができる。

穂別町養鯉組合ができる。
38
昭和四八年 1973 稲里小学校七〇周年記念式典 長和の円満寺がなくなる。

穂別町開拓農業協同組合が解散する。

電気利用農協の北電への移管が完了する。

穂別町軟式野球連盟ができる。

福山へのバスの運動がはじまる。

穂別町キジ生産組合ができる。

肉牛試食会が開かれる。

穂別に水稲共同育苗施設ができる。

下和泉地区に共同井戸ができる。

町営スキー場にロープ塔ができる。
34
昭和四九年 1974 中谷総業の穂別工場ができる。

稲里豊進地区が国民休養地に指定される。

第二次林業構造対策事業がはじまる。
日胆衛生組合し尿処理施設が田浦にできる。

ニサナイに水稲共同育苗施設ができる。

穂別地区の電話が自動化される。

穂別市街に初めての信号機ができる。丸善商店前。

穂別町自然を守る会ができる。

穂別町総合センターができる。

坊主山に登山施設ができる。

上和泉地区に共同井戸ができる。

穂別ダム地区の住民移転。長和部落はなくなる。
32
昭和五〇年 1975 第一会肉用黒毛和種共進会が開かれる。
会場は穂別市街入り口の河川敷。

和泉小学校に愛の鐘が置かれる。

荒木新太郎が稲里でクビナガリュウの化石を見つける。
石油沢で石油を掘るテストがはじまる。

町民公園に浅野晃の歌碑を移す。

穂別巡査部長派出所にパトカーが置かれる。

和泉小開校八〇周年を記念して「いずみ」の碑が
建てられる。

第一回町民マラソン大会が開かれる。

長和小学校の閉校式を行う。

稲里第三地区に共同井戸ができる。

ニサナイ・中島まで穂別の簡易水道が伸びる。

新穂別炭鉱が閉山する。
27
昭和五一年 1976 第一回町民スケート大会が開かれる。

愛誠園ができる。

穂別纏太鼓の初めての発表会が開かれる。

福山に共同井戸ができる。

金属ごみ圧縮施設が和泉ごみ処理場にできる。
仁和まで穂別の簡易水道が伸びる。
町営野球場ができる。

稲里地区農業構造改善事業が終わる。
21
昭和五二年 1977 穂別IKメロン生産組合ができる。

穂別町営テレビがなくなる。

穂吟会(詩吟)、穂友会(民謡)ができる。

クビナガリュウの発掘調査がはじまる。

稲里にライスセンターができる。

稲里第二地区に共同井戸ができる。

さくら保育園が新しくなる。
21
昭和五三年 1978 遊具施設、噴水池、築山、花壇完成 仁和・栄地区の電話がダイヤル化される。

穂別町長いも生産組合ができる。

ほべつ少年纏太鼓ができる。

富内地区の電話がダイヤル化される。

穂別町立歯科診療所ができる。

穂別第五遺跡の発掘調査がはじまる。

ニサナイの町営宅地の分譲がはじまる。

稲里・茂別にテレビ共同受信施設ができる。

豊泉地区に共同井戸ができる。
17
昭和五四年 1979 和泉小に実習水田ができる。

富内巡査駐在所がなくなる。

稲里第一地区飲料水供給施設ができる。
安住第一地区共同井戸ができる。

町スポーツセンターができる。

茂別に簡易水道ができる。
16
昭和五五年

1980

プールが完成する

校長先生の家に電話が置かれる。
ほべつスケートまつりが開かれる。

穂別小で米づくり実習がはじまる。

東京「ほべつ会」が開かれる。

穂別町営キャンプ場ができる。

稲里小にプールができる。

穂別中の建て直しがはじまる。

中沢利幸の水田が献穀米の指定を受ける。

ニサナイと平岡に共同テレビ受信施設ができる。

稲里に電話がつながる。

あづまトンネル、新栄和橋ができる。
14



昭和五六年 1981 福山小学校の閉校式を行う。

消防合同庁舎ができる。

国鉄石勝線が開通する。

東雲地区簡易飲料水供給施設ができる。
12
昭和五七年 1982 百葉箱を設置する 福山郵便局と福山中学校がなくなる。

三和化学研究所北海道工場ができる。

開町七〇年・町制施行二〇年記念式典・祝賀会が開かれる。
町立博物館と町立図書館ができる。

博物館前庭にタイムカプセルを埋める。

平岡地区に共同井戸ができる。
稲里川東地区の簡易給水施設ができる。

クビナガリュウの愛称が「ホッピー」に決まる。
15
昭和五八年 1983 福山に電話がつながる。

穂別人間流送まつりが開かれる。

長和小学校の閉校式が行われる。

町営テニスコートができる。

国道二七四号線の稲里トンネルができる。

穂別中学校の校舎・体育館の建て直しが終わる。
12
昭和五九年
1984
小学校八〇周年、中学校三〇周年記念式典
つつじ・果樹・桜植樹、花壇及び岩石園完成
第一回ほべつ雪山まつりが開かれる。

仁和大橋ができる。

銀河鉄道の夜(札幌−穂別鉄道の旅)が開かれる。

清川三十四、宮中に穂別米を献納する。
14

昭和六〇年 1985 稲里〜福山の国道が完成する 町営スケートリンクが河川敷にできる。

穂別ダムに神社ができる。

穂別ダムが完成する。

商工農産まつりと人間流送まつりを合わせて、「穂別流送まつり」として行う。

国道二七四号線(稲里−福山)が開通する。
19
昭和六一年
1986
屋外物置設置(グラウンド)

交通安全呼びかけ運動を始める
(クビナガリュウのマスコットを配る)

上水道完成

校長住宅新築
穂別町農協と穂別町アスパラガス農協が一緒になる。

町内唯一の銭湯「ふじの湯」がなくなる。

国鉄富内線廃止。
町営バスが穂別−稲里の間を走りはじめる。

富内線代替バスの運行がはじまる。
穂別地区広域簡易水道ができる。

町営公衆浴場がはじまる。
20

昭和六二年
 
1987
 
学校前の交通信号機設置

稲里浄水場ができる
ごみの分別収集をはじめる。 22
昭和六三年 1988 夕張〜稲里の国道ができる 稲里簡易郵便局ができる。
昭和六四年
平成元年
1989
ゲートボール場、テニスコート新設

学校林・遊歩道増設

第一回交通安全ボランティアを行う
穂別パークゴルフ場ができる 22
平成二年 1990 学校林間伐
平成三年 1991 学校林間伐 18
平成四年 1992 20
平成五年 1993 19
平成六年 1994 稲里小学校九〇周年、稲里中学校四〇周年記念式典  15
平成七年 1995 13
平成八年 1996 インターネット開設 15
平成九年 1997 14
平成一〇年 1998 稲里中学校閉校記念式典

稲里小新校舎の建設がはじまる

わこうどホームページコンテスト優秀賞受賞
10
平成一一年 1999 学校林間伐(カラマツ)
学校林全伐(トドマツ、アカエゾマツ)

新校舎完成、引っ越し

新校舎落成記念植樹

新校舎落成記念式典・祝賀会
平成一二年 2000 北海道交通安全推進委員会より感謝状をもらう

新校旗完成
平成一三年 2001
平成一四年 2002
平成一五年 2003
平成一六年 2004 開校百周年記念式典・祝賀会開催
平成一七年 2005
平成一八年 2006
平成一九年 2007
平成二〇年 2008 同窓の碑ができる
平成二一年 2009 稲里小学校閉校記念式典・惜別の会開催
稲里小学校閉校